伝えたいこと

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不登校は「おかしい」こと?

 公教育がはじまったのはいまから150年以上前の明治維新にさかのぼります。欧米列強の植民地化を逃れるために日本を近代化しなければならなかった当時の明治政府は産学の急速な近代化を図りました。その一環として施されたのが「学制」で、日本国民の技術・知識の水準をある程度揃える目的にしていました。学制は現在の義務教育のはじまりといえます。
 学制が日本国民のあいだで定着するようになるには時間がかかりました。当時の日本国民は農業が家計を支えている家庭が圧倒的に多かったため、学校に行って勉強をするよりも、家で農業の手伝いをしたほうがよいと考える親がとても多かったからです。学校に行っていない子ども、つまりいまでいうところの不登校に相当する子どもたちの割合は、実は学制が施行された直後が最も多かったのではないかという考え方もあります。しかし彼ら彼女らは「学校に行きたくてもいけない」という現在の不登校の子どもたちの葛藤はなかったように見受けられるため、その考え方には大きな指摘すべき点があると思います。
 話は戻りますが、学制が施行された後に学校へ行っていない子どもがたくさんいたとしても、行かないことを「おかしい」と感じる社会ではなかったということが現在の不登校問題との明確な相違点だと思います。明治政府からしてみると「おかしい」ことだと受け止められるかもしれませんが、当時の多くの日本国民の多くのライフスタイルに「登校」はあたりまえでなかったため、学校へ行かない子どもや家庭があっても「おかしい」とは受け止められていなかったと考えることができます。

学校へ行かないことがおかしいという社会

 不登校が日本において本格的に社会問題として取り上げられるようになったのは、だいたい戦後の動乱期が終息した後でしょう。終戦から数年間は衣食住が満足ではなく、日本全体の経済も破綻していたため、学校へ行けない子どもがいたとしても、それは仕方のないことでした。しかしそういった終戦後の山積していた問題がある程度解決されて、いわゆる「中流家庭」が日本国民の大多数を占めるようになると、関心は子どもの教育にかわっていきました。今では高校進学は準義務教育といっても過言ではありませんが、そのはじまりはやはり戦後になり豊かな生活ができるようになった時期です。
 我が子に高校進学、もっと先を見れば大学進学をさせたいと考える家庭が増えると、学校へ行くことは「あたりまえ」になっていったのです。休まずに学校に行ってたくさん勉強をすること(させること)がどの家庭にも浸透していくと、今度は学校へ行っていない(行けない)子どもや家庭が「おかしい」と思われるようになりました。この時期を契機に、不登校が社会問題として取り上げられるようになりました。

不登校はおかしいことか

 アルビノという遺伝子の病気をご存知でしょうか。メラニンの生合成にかかわる遺伝子が異常をきたすことによって、生まれてくる動物の肌や毛が真っ白になる病気です。人間でアルビノの方もおられますが、人間だけに固有の病気ではなく、生物として生まれてくる多くの種で見られる病気です。
 わたしたちが普段見ているカラスというのは体中がほぼ真っ黒です。しかしアルビノで生まれてくるカラスはその逆でほぼすべてが真っ白です。アルビノのカラスは保健所で保護されることも珍しくないそうです。なぜなら、真っ黒のカラスの群れのなかに真っ白のカラスがいると、そのカラスを異質な存在として受け止めて攻撃や除外の対象になるからだそうです。残念なことに生まれてきた子どものカラスが真っ白だとわかると、親がその子どもを巣から落としてしまうこともあるそうです。つまり、真っ黒なカラスにとって真っ白なカラスは「おかしい」カラスなのです。
 わたしがアルビノの話で何が言いたかったのかというと、人間社会でも同様の現象が見られるということです。学校に行くというあたりまえの社会では、学校へ行っていない(行けない)子どもや家庭がおかしいととらえられています。あたりまえという価値観によって、あたりまえではない子どもや家庭がおかしいと思われるようになるのです。
 ここでひとつ断っておかなければならないことは、先にアルビノの事例を挙げましたが、その後に述べた不登校が病気であるということが伝えたいわけではありません。人間を含めた多くの生物が、大多数の「あたりまえ」や「普通」のなかに自分たちと異なる存在が確認されると、それを問題視したり除外してしまうという現象がみられます。それは生物として生まれてきた以上は、残念ながら起こってしまうことも無理のないことで、本能的なものであるということが伝えたかったのです。
 しかし考えてみると、多くの人々にはできてもそれができないという子どもが生まれてくることは、自然の道理に基づいて考えるとおかしいことなのでしょうか。わたしはおかしくないと思います。みんなが全く同じように生まれてくることは自然界ではありえないことです。ひとつひとつのいのちにはそれぞれ違いが出てくることは、それこそ自然のあり方です。だから何らかの理由や能力的な要因で、学校生活を送ることに苦痛や困難を感じる子どもがでてくることも、自然の道理に基づいて考えるならば、別におかしいことでもなんでもないように思います。子どもたち一人ひとりに、物事のとらえ方や感じ方に違いがあるからこそ、学校へ行くことに苦手意識を持ったり、行きたくてもいけない何らかの理由が出てくることも、それは自然のあり方として考えるならば何もおかしいことではないということです。そういう違いは、わたしなりに言うならば「多様ないのち」です。

 わたしは公教育を全面的に否定しているわけではありません。わたしも過去に不登校経験がありますが、今となっては学校でもっと勉強しておけばよかったと後悔しているぐらいです。しかし、学校へ行くという「あたりまえ」という価値観の浸透している社会で、学校へ行くことができない子どもが「おかしい」ととらえられる社会にはやや疑問に感じていたりします。その理由は先述のとおり、自然の道理に基づいて生まれてくるものはすべてが同じように生まれてくることはないためです。多様ないのちのあり方として、一人ひとりの学習や発達に見合った環境が様々な形で認められることを切にねがっています。